2026年5月28日
「また今日もやらなかった」と、お母さんは静かな声で言った。
怒鳴ったわけじゃない。責めたわけでもない。ただ、疲れていた。毎晩繰り返される同じ会話に、少しずつ、確実に、消耗していた。
子どもは子どもで、別の部屋でテレビを見ていた。
その家の空気を、僕は想像することができる。なぜなら、保護者面談でそういう話を、何十回も聞いてきたからだ。
まず、一つだけはっきり言っておきたい。「練習を嫌がる」のは、やる気の問題ではない。
やる気というのは、霧のような言葉だ。つかもうとすると消える。「やる気を出しなさい」という言葉は、「もっと霧を集めなさい」と言っているのと、あまり変わらない。問題は別の場所にある。
嫌がっているのは「練習」ではなく、「あの感覚」だ
子どもが練習を嫌がるとき、本当に嫌なのは練習そのものではないことが多い。
嫌なのは、うまくできない自分に向き合う時間だ。同じ場所で何度も詰まる。昨日できたのに今日できない。弾けば弾くほど、自分の下手さが浮き彫りになっていく。大人でも耐えるのが難しい体験を、子どもは毎日、練習部屋でたった一人でやっている。
嫌がるのは、当たり前だ。むしろ、それでも楽器の前に座ろうとしている子は、相当に強い。
「できない」が積み重なると、楽器が怖くなる
正しく整理されないまま練習を続けると、「できない体験」だけが蓄積されていく。楽器を見るたびに、その重さを思い出す。練習部屋に入るだけで、体がわずかに緊張する。
楽器が、怖い場所になっていく。
これは意志の弱さでも、才能のなさでもない。体が、正直に反応しているだけだ。嫌な体験と結びついた場所へ、人間は自然と足が遠のく。子どもも大人も、変わらない。
「もっと練習しなさい」だけでは解決しない。
量を増やしても、嫌な体験の蓄積が
速くなるだけだ。
必要なのは「小さな成功」を設計することだ
僕がレッスンで最初にやることの一つは、その子が「できること」を探すことだ。
どんなに伸び悩んでいる子でも、必ず何かができている。音色が良い子もいる。リズム感が正確な子もいる。表情が豊かな子もいる。それを見つけて、声に出す。
「この部分、すごくいい音してるね」
その一言で、子どもの体の緊張が、ふっと緩むのがわかる。次に、今日絶対に達成できる課題を一つだけ決める。曲全体を通すのではなく、4小節だけ。速く弾くのではなく、ゆっくり3回だけ。難しいパッセージではなく、一番得意な部分から始める。
できた体験を、一つ作る。たったそれだけで、次の練習への抵抗が変わる。
生徒の記録 (保護者の許可を得て掲載)
Cさんは小学3年生で、ある時期から練習を完全に拒否するようになった。楽器の前に座らせようとすると、泣いた。
お母さんは困り果てて相談に来た。「もう辞めさせた方がいいのかもしれません」と言っていた。
話を聞くと、コンクールに向けて難しい曲を急ぎ足で仕上げようとしていた時期があったという。毎回のレッスンで「まだできていない」を繰り返した。その子の中で、楽器は「怖いもの」になっていた。
僕がやったのはシンプルなことだ。一ヶ月間、その子が「好きな曲を好きなように弾く」だけにした。課題なし、ミスの指摘なし。ただ弾く。
三週目に、その子は自分から難しい曲を弾いてみたいと言い出した。楽器が怖い場所でなくなったとき、子どもは自分から動き始める。
親が「聴く」だけで、変わることがある
保護者の方に一つお願いがある。
練習を聴くとき、できれば何も言わないでほしい。上手く弾けたときも、ミスしたときも、ただそこにいて、最後に「聴いてたよ」と言うだけでいい。
子どもにとって、誰かに聴いてもらえるというのは、思っている以上に大きい。練習は孤独な作業だ。誰かがそこにいるだけで、その孤独が少し和らぐ。
上手くなってほしいという気持ちはわかる。でも、その気持ちがプレッシャーになっていることもある。静かに聴いてもらえる安心感が、子どもを楽器へ向かわせることがある。
「やる気」を待つのをやめる
やる気が出てから練習する、ではなく——練習の中でやる気が生まれる。
この順番を、ひっくり返してほしい。
小さくていい。今日、一音だけ弾く。それだけでいい。一音が二音になり、二音が一フレーズになる。体が動き始めると、頭もついてくる。
やる気とは、動いた後にやってくるものだ。
静かに待っていても、霧は晴れない。
今日からできることを、一緒に見つけましょう
練習を嫌がっていて、どうしたらいいかわからない。楽しく続けさせてあげたいけど、どう関わればいいか。一度、今の状態を整理してもらいたい。
お子さんの状況を聞いて、今日からできることをお伝えします。オンラインでも対応しています。
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